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陳 賡(ちん こう、1903 - 1961年3月16日)は、中華人民共和国の軍人。中国人民解放軍の大将。本名は陳庶康。字は伝瑾。 == 略歴 == 1916年、湘軍に入隊。軍閥同士の戦いに不満を持ち、1921年に湘軍を離脱し、長沙で働きながら勉学を続けた。1922年、中国社会主義青年団に加入し、同年12月、中国共産党に入党。1924年5月、黄埔軍官学校に第1期生として入校し、卒業後、同学校で連(中隊)長、副隊長を務めた。商団反乱、楊劉(楊希閔、劉震寰)反乱の平定、軍閥陳炯明の討伐に参加。黄埔軍官学校青年軍人連合会の責任者の1人。 1926年秋、ソ連に赴き、赤軍で保安工作と爆破技術を習得した。1927年2月に帰国し、国民革命軍第8軍の特務営(大隊)営長に任命される。4月、中共第5次全国代表大会に出席。7月下旬、周恩来に従い江西に赴き、南昌起義に参加し、総指揮部で保安工作を担任した。起義軍の広東南下途中、第20軍の営長となる。会昌での戦闘中に負傷し、香港を経由して上海で入院。1928年から周恩来の指導の下、中国共産党中央特科の工作に参加し、共産党員を国民党中央機関、警察、特務機関に潜入させ、重要情報を入手した。 1931年10月、鄂予皖蘇区に移り、中国工農紅軍第4方面軍第4軍第12師師長となり、黄安、商潢、潢光戦役、鄂予皖蘇区の第4次反「囲剿」中の馮寿二、七里坪、扶山寨等の戦闘に参加した。1932年9月、負傷のため上海で入院した。この時、魯迅に鄂予皖紅軍の情況を紹介した。1933年3月、国民党により逮捕され、南昌で蒋介石と会見したが、彼の誘いを拒絶した。後に中共と宋慶齢等の助けで、5月末に中央ソビエト区に脱出し、彭(湃)楊(殷)歩兵学校校長に任命された。1934年10月、長征に参加し、軍事委員会幹部団団長として皎平渡を占領し、紅1方面軍主力の金沙江渡河を保障した。陕北到達後、紅1軍団第1師師長に任命され、羅鎮、東征、西征、山城堡等の戦役に参加した。1937年2月、抗日軍政大学に入校し、第1隊隊長を兼任した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「陳コウ (軍人)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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